1年ぶりのひとりごと

 色々、ありまして更新できませんでした。本ページを楽しみにしている方があれば、おわび申し上げます。言い訳から申し上げますと、昨年は我が兄が亡くなりまして、この7月には我が母が亡くなるという2年連続の不幸が続きました。特に兄はこの「ひとりごと」025/2003年11月10日   奇病 ギラン・バレーからの生還にあるように、大病を乗り切ったのですが、その後以前からの持病が次第に悪化し、昨年亡くなりました。年齢も61と本来ならばまだまだ現役であったが故に残念でしかたがない。

 さて、母は年齢89で、ここ数年でいわゆるボケが進行し、介護施設で過ごしていた。本来はずっと家に居ればいいのだろうが、24時間家族でケアするには負担が大きい。このような施設を利用するのもやむをえない。
 兄嫁は病気の兄とボケた母の面倒をずっと見てきてもらい、その苦労を察する。本当にご苦労さまでした。

 自分をふくめ、人生の末期には介護施設−>病院−>天国というコースをたどるのが基本コースなのか・・・

 さて、母の思い出だが、色々あるが特に心に残っているのが、少年時代ずいぶんひっぱたかれたことを思い出す。毎日「勉強しろ、勉強しろ」とうるさく、テレビやマンガを見てると必ず、ほうきやハタキの棒でたたかれた。もう一つ神経質だったのが恋愛関係だ。少年時代には好きな娘もできたりする。女子からの年賀状来ただけで没収された。つまり恋愛は勉強の妨げになるという理屈だ。なぜここまで勉強にこだわるのかというと、戦争になったら、勉強のできない兵隊はまず危険な前線に出される。理工系の勉強ができれば、内地の工場や研究所で勤務し、危険な前線に出ないで済むと言っていた。戦争はとっくに終わっていたが、体験上その理屈が体にしみこんでいるのだろう。

 自分としてはあんまり可愛いがられた思い出はない。兄弟が5人もいたから、一人一人丁寧に面倒みてられないというのも事実だ。最近では家族殺しの事件が多発してるが、十分自分にも条件はあてはまっている。17−18歳くらいで何となく人生のむなしさや、自分は将来どうなんだろうという不安で自殺を考えたりすることもあった。しかし、それらはほとんどの若者が一度は通る道なのだ。幸い自分は家族も殺さず、自分も死なずにここまで来た。この程度といっては何だが、世の中にはもっと劣悪な家族の中で苦労している若者も一杯いるの事実だ。それでもなんとか自分の良識と良心でギリギリ踏みとどまっている人もいるのだ。

 こう考えた。100%完璧な親とか家族はいない、母はこうあるべきだ、母は自分の話を熱心に聞いてくれるはずだ、このような自分で作った枠組みに当てはまらないと不愉快になるのですか?母はそのまんまの母だ、枠組みは母自身が作っているので、自分はそれに合わせるか、うまく折り合いを付けるしかないのだ。

 小生が働くようになったとき、母に小遣いをあげたら、お金の入った封筒を両手でにぎり「へへっ」と笑った。それ以来、自分に干渉がましいことはいっさい言わなくなった。自分はようやく母を乗り越えることができたと感じた。

 プラス・マイナス色々考えられるが、今は自分を生んでくれてよかったと思っている。生きることは必ずしも毎日が楽しいことばかりではないが、まず、自分が生まれてなければ、なにも話がはじまらない。